日刊ジャスミン

5月4日

 衒学な人と本当の知識人はまるで違う。衒学というと、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』を想起させるが、あれは作品であり、悪の衒学ではないと思う。なにしろ、あのような本は言葉や文学に溺れた酔狂人を興奮させ、人々を楽しませるからだ。ここで言いたい悪の衒学とは、どれだけの好奇心をもっても打ち勝てぬほどの中身の無さが際立った知識のひけらかしだ。「蘊蓄を垂れるのが好きな人=衒学な人」ではないとわたしは思う。蘊蓄や雑学というものは、知れば人に伝えたくなるものであり、それはごく自然な生理現象であるのだ。でなければ、本や物語、今で言えばテレビやラジオ、インターネットなど発展しない。知ったものは伝えるのが道理であり、それによって知が人と人を結びつけ、それが糸を成して組み合わさって巨きな人類の知となる。ニュートンはそれを巨人と表したが、一人がどれほど知を蓄えようと、誰にも伝えずに死んだならば肉体と共に知識も死ぬ。知の背丈は、巨人の脚や愚か、その辺の木よりも低いことだろう。ゆえに知は伝えるべきあるのは明らかだが、それとペダンチスムは全く違う。
 ペダンチストは、先述の通り知識に中身を持たせず、それを伝えることによって得られる良きフィードバックを全て自分に注がせようとしているのだ。蘊蓄を垂れる者だって、雑学を披露することで名声を博そうとする下心があるではないかと思う人もいるだろう。それはそうだ、誰だって快感を得ようとするものだし、その手段が蘊蓄を垂れることであっても問題はないが、衒学者との決定的な相違点が彼らにはある。それは、知ってほしいという、人による濃淡はあれども皆がもつ願望だ。自分が知り得た知識。その希少性を己が認めているからこそ、蘊蓄として扱っているはずだ。それを相手に渡す。これは知識という貴重な品の贈与であるのだ。それは見返りよりも、その知識に価値を見出していることの重要性が遥かに上まっていることを意味する。
 伝えたい。この気持ちこそが、巨人を築き上げた材料であり、この偉大な歴史の伝播を担っているのだ。人に伝え、それでも爪痕を残すために石盤に刻み、文明を発達させて本に記し、より多くの人へ向けて電波に乗せて、より速く届けるために強靭で高速な光の網を築いた。その全ての源は一つの願い。この文章もその気持ちがあって成り立っているはずだ。
 ならば、人類に衒学者など存在しうるのか。

2022年5月4日(水)・第131回

丑三つ時前ヘッドライン

ロングタイム雪之丞の
モンデーミュージック

音楽

さらば、猫背。#1
ゴミラボ、はじまりの地

dog Bone

規制線 第五話
『ラヂオ』

エッセイ

春のお便り

本サイトを試験的にリニューアルしています。現在はそのプロトタイプです。

©︎JASMINE|週刊素馨