【リメイク特集版】死刑制度を考える

本特集記事は2020年5月7日発行「週刊素馨 死刑制度を考える」9~12ページの記事を基に再作成されている。




【執筆:Σ(編集部)】

この死刑制度問題についての書き方は二通りある。
一つは、賛否両方の考え方をただ紹介し、自分はなるべく中立の立場を守るというもの。自分がどちらの立場を受け入れているか明かすことを避ける。
もう一つのアプローチは書き手が受け入れていることを現に読者に語る方法だ。この特集を組むと決 めた当初、私は前者の書き方で進めようと思っていた。
しかし、それでは事実を淡々と語り、あまり深みのない文となってしまう。それは避けたい。そして、少しでも死刑という問題について読者に考えてもらいたいのだ。それが目的なのであれば私自身の立場を明らかすることで、自分だったらどの立場に立つだろう?と考えることができるのではないだろうか。
従って私自身の立場を明らかにした上で客観的事実を詳述するとともに、私の意見も述べ、この問題について深掘りしていく。
では私自身の立場を明らかにしよう。
私はこの問題について考える前は死刑存置派でも廃止派なく (というより死刑に関する知識が浅かった)立場が定まっていなかった。
しかし多数の死刑に関する著書を読み深く考えた上で自分の立場が決まった。
いずれ意見が変わることもあるかもしれないが、この記事を書いている現時点で私は死刑存置派、即ち死刑を肯定する。
この特集が決まってから、私は様々な死刑に関する著書を読んだ。勿論、存置派・廃止派双方の著書である。
だが数冊読んだくらいでは全く意見が定まらず更に混乱してしまった。
無論、それでは筆も全く進まず気付いたら本号(2020年5月7日発行週刊素馨)発行1週間前まで一文字も書けずにいた。
この問題は人類最大の問題であり、私には無理だと嘆きそうになっていた。
しかし、私は粘りに粘って本を漁るように読んだ。
そこである時、私の立場をピシッと定めた本と出会った。

それは「死刑絶対肯定論 美達大和著」である。
題名からして、きっと多くの人が
「あぁ、お前はその本に流されたんだな。まんまとその本に影響されたんだな。」
と思うことだろう。
しかしそれは否定させてもらいたい。もしそのように思うならこの本を読んでから言って欲しい。元々私はどちらのスタンスでもなかったが、死刑を肯定する気は更々なかった。(かと言って廃止ではなかったのだが。)

しかしこの本を読み終え、私は大事なことを見落としていたと気づいた。
それは本書(「死刑絶対肯定論」)を読んで実感してもらいたい。
少し衝撃を受けるかもしれないが、この本は二人を殺し現在は LB級刑務所で服役している無期懲役囚が書いた本であるのだ。
無期囚の視点から見る死刑の在り方についての考えはリアルであり、鑑みるべきものもある(誰にでも良さはあるものだ)。

前置きが長くなってしまったが、私の立場、そしてこの特集の方針については理解できただろうか。
先にお断りさせていただくが、本特集は非常に文字数が多いがどうかご容赦願いたい。非常に難しい テーマであり、あまり拗らせずにわかりやすく伝えたい気持ちもあるが、事実だけでなく情緒の問題にも踏み込んで深く述べていくため通常の特集よりも文字数が多くなってしまうが、できるだけ読みやすく書いたつもりである。
どうか少しでも読み、自分の考え(意見)を持ってもらいたいと思う。

また死刑を語る上で痛々しい表現が出てくる可能性もあるが、どうかご理解を した上で読み進めてもらいたい。

死刑を知る

日本は先進国の中でも稀な死刑存置国であるのにも関わらず、多くの国民がその実態を知らない。
そこで、どういった流れで死刑が執行されるのかを解説する。
まずは裁判で死刑が被告人に言い渡される。ここで軽く触れておくが日本の法律では死刑の適用基準が曖昧である。
1人を殺して死刑になる場合もあればならない場合もある。
死刑適用の是非が争われる刑事裁判で多く用いられるのが「永山基準」である。昭和五八年に最高裁が上告中の事犯に示した判決が「永山基準」と呼ばれ、参考基準と なっている。基準は次の9項目である。

(一)犯罪の罪質
(二)動機
(三)犯行態様
(四)結果の重大性
(五)遺族の被害感情
(六)社会的影響
(七)被告人の年齢
(八)被告人の前科
(九)犯行後の情状

注目すべきは(四)の結果の重大性だ。
結果の重大性とは主に被害者の人数のことである。前述したが一人を殺して死刑になる場合もあればならない場合もある。
しかし一人の命の価値(重さ)は平等と考えるのであれば、同じ人数でも判決に差異があるのはおかしいのではないだろうか。
特に動機 が(「死刑絶対肯定論」で頻出する)“殺人犯の利得や性欲の為”なのであれば尚更だ。それは殺された罪のない被害者のことを慮る判決と言えるのだろうか。
従ってこの永山基準は考え直さなければ ならない点もあるだろう。
そして死刑判決を受けた被告人は確定死刑囚となり、拘置所等に移送される。
法律上は死刑執行は 判決後6ヶ月以内に執行しなければならいが、実際は違う。大半の死刑囚は10年程執行までかかる。
執行は法務大臣の机の上に置かれた書類に法務大臣が署名をすることで書類は直ちに刑務所或は拘置所に送られ、1週間以内に行われる。 執行は午前中に行われる。(深夜に行うという国もある。)執行の宣告はその日の朝だ。死刑囚たちは朝食後、一旦部屋に戻る。そしていつ執行がおこわれても良いように全員が毎朝部屋の整理をする。刑務官が来なければ(その日自分に執行がなければ)、死刑囚たちは運動場へ行く。死刑囚たちにとって朝は恐怖の時間帯なのだ。
そしていつかは自分の部屋の前で刑務官が足を止める。そして処刑場へ連れて行かれる。舎内は死刑囚は普通に歩けるが、問題は刑場に入ってからである。ある刑務官によると、最後まで自力で歩いた人はほとんどいないそうだ。刑場に入り茶菓子を食べ、教誨を受け、刑務官が「さぁ」と言ったときに足が動かなくなるのがほとんどだそうだ。中には床に這いつくばって何としてでも執行を免れようとする者もいるそうだ。
しかし、刑務官は何としてでも処刑台へと連れてゆく。
そして処刑台の上に立つと、上にある縄に首を通す。
その後、別室にいる数名の刑務官が同時に(多くの刑務所が5人で)ボタンを押す。※5人でやるのは執行人の心理的負担を軽減するため
ボタンの内のどれかが処刑台の板と繋がっており、床が開き死刑囚は落下し、脊髄が折れす ぐに意識を失うそうだ。そして30分ほど吊す。意識は失っても心臓はすぐには止まらない。ドク、ドクと強い鼓動を打っている。
そして少しずつ脈が遅くなり、死刑囚は死ぬ。
死亡診断が行われて執行は終わる。
執行人には3万円の手当がつく。

これが死刑の実態である。

しかし日本は異常なほどに死刑に対して守秘義務がある。
最近になってようやく執行を法務大臣が発表するようになったが、今までは執行前に遺族や死刑囚の家族にすら伝えられなかったという。
執行が終わってようやく遺族や死刑囚の家族にだけ密かに知らせが来るのだ。
国民などそれを知る由もなかったのだ。
私はある程度の公開性は必要であると思う。
こうした全てが全て非公開であると、国民は死 刑の実態を知る術がない。
知らずのうちに執行が行われること、果たしてそれは正しいのだろうか。
この国家に死刑がある以上、国民は死刑を肯定しているということになる。
一人一人の意見は別とし て、まず国民に死刑の実態を公にするということは死刑の是非を問う以前の問題ではないだろうか。
勿論、死刑の様子を国民全員に公開した方が良いと言うわけではないが、ある程度のシステムや現状を公開するべきではないだろうかと思う。

廃止の主張

死刑廃止派の主な主張としては人権の侵害や犯罪抑止効果の無さ、非道徳性等が挙げられる。
そもそも人を殺した者を国家が殺すことは正義であるのだろうか。
被害者遺族の応報感情を国が代行して正当に行うということが今の死刑制度である。
ハンムラビ法典には「目には目を、歯には歯を」という言葉がある。
誤解がないように説明しておくが、ハンムラビ法典は復讐の為の法律ではなく、同害報復(タリオ)の為に作られたものである。加害者に対する刑罰(報復)が、受けた被害よりも大きくならないように、復讐の連鎖を防止することを目的として制定されたのだ。
そしてこのハンムラビ法典でいう死刑は「命には命を」ということであろう。確かに成立はする。ただし今の論点は殺すことを悪とするのであれば報復の殺しも悪ではないのかということだ。システムが人を殺す。
しかしそれは法律上認められているのだ。正義とは一体何なのだろうか。
そして廃止論者は時折、死刑の残虐性についての主張をすることがある。
それに対し、存置派は約束のように昭和二三年三月十二日の最高裁大法廷の判決を援用し、死刑は、残虐な刑を禁止している憲法第三六条には反していないと言う。 日本は明治時代から法律によって処刑方法を絞首刑とした。
今までの磔、鋸引き、獄門、斬首刑に 比べると比較的残虐性は低下したと見れるだろう。
これに関しては有名な古畑鑑定がある。絞首刑は自体重の落下衝撃で舌骨、甲状軟骨が折れ、首の周りの断裂を伴い、脳に繋がる神経の通る頸髄も断裂させ、瞬時に意識を失うということになっている。
しかし、処刑台から生還した者はいない為、実際の声は分からない。
だが私は思う。死刑囚は人を殺したのである。
それも“殺人犯の利得や性欲 の為”であるならば死刑囚のことを慮り優しく殺す必要性はあるのだろうか。
国家が被害者遺族の応報感情を代行するのであれば、もっと痛めつけても良いということもできるのだ。(私はそこまで強要しないが)
同じ理屈で言うならば、死刑囚に人権はあるのだろうか。
無論、人は生まれた時には皆平等である。
しかし“己の利得や性欲の為”に人を殺した者に人権などないと私は思う。人の命を奪った者の命を尊重する理由が見つからない。
片岡氏(週刊素馨に寄稿経験のあり,YouTuber,『たけ蔵チャンネル』を運営)は完全なる廃止論者である。
彼はこう言うのだ。「何があっても人を殺してはならない。勿論、殺人を犯したものは最低である。しかし、それを国が殺すことも同等に最低である。」と-。
殺人という行為に正義などはないということが彼の言い分だ。
もっともな意見だ。
しかし、 人を殺した加害者を生かすことは正義なのだろうか-。

冤罪

死刑を考える上で避けては通れない道、冤罪。
廃止論者はこう言う。
「一人であろうと冤罪者を出さない為に、残りの九九人の死刑を廃止せよ。」と-。
これに対して ラジカルな存置論者は言う。
「九九人の殺人犯を助けるくらいなら、一人くらいの冤罪は仕方なし」と-。
後者の意見は絶対にあってはならない。
一人であったとしても冤罪者は絶対に出してはならない。
罪のない者を殺す。
これは本当の意味での国家による殺人だ。
しかし残念なことに日本にもある程度の冤罪者はいる。
そして悲しいことに死刑を執行された冤罪者もいる。
では、果たして死刑に冤罪は必ず伴うのだろうか。
「疑わしきは罰せず。被告人の利益に。」
冤罪の場合は少なからず何処かで矛盾やおかしな点が見つかるはずだ。
しかし、多少は見て見ぬふりをして判決をする、これはあってはならない。
少しでもおかしな点があるのであれば丁寧に吟味し てから判決をすることである。
冤罪は一般に初動捜査が不調に終わること、捜査員の思い込みと情熱の強さ、被害者の迎合的性格・気の弱さ、物的証拠と供述調書の検証不足が原因である。
つまり、冤罪は完全にとは言い難いが減らすことは可能なのである。

再述するが、冤罪は絶対にあってはならない。罪のない者を殺す。
これは本当の意味での国家に よる殺人であるのだ。
検察及び裁判はそれなりの責任をもってもらいたい。

死刑の代替

死刑を廃止するのであれば、それ相応の代替案が必要となってくる。
今ある刑罰としては、死刑、無期刑、そして有期刑がある。
死刑と無期刑では大きな差がある。
海外の死刑廃止国の多くは終身刑を採用している。
多くの人は終身刑と聞くと死ぬまで服役しなければならないと言うイメージを抱く人が多いようだが、文字通り死ぬまで収監するという国は少なく、国によって差があり、15年〜30年で仮釈放となるケースも多い。
因みに無期刑は法律上は10年を過ぎた時点仮釈放の審理が開始されるが、ほとんどが収容されてから30年〜40年近く経ってから仮釈放となっており、収容中に事故などがあれば仮釈放が取り消されるというケースも多い。

存置の主張

単刀直入に廃止論者の主張の欠けている点を言おう。
それは、被害者遺族の気持ちだ。
ある日突然に愛する家族が“犯罪者の利得や性欲の為”だけに殺されるのだ。
私にはそんなこと想像できない。(正確にはしたくない)
廃止論者に問いたい、
「あなたは愛する家族(或はペット)が “犯罪者の利得や性欲の為”だけに殺さたらどう思うだろうか」
私は(少し感情的な文になって しまうが)極刑を望む。
そんな者に生きる価値などないのだ。
人権がどうこうの問題ではないのだ。
廃止論者は言うだろう。
「死刑に処しても、あなたの愛する人は戻ってこない」と-。
確かに戻ることはない。
しかしそうではないのだ。被害者遺族は生涯大きな心の傷を負って生活することとなるのだ。その上で加害者の死刑は被害者遺族にとって一つの区切りとなるはずだ。自分の愛する人を奪った者が同じ世界(国)にいることすら被害者にとっては辛いのだ。
三権分立を唱えたモンテスキューは言った。
「命を奪い、或は奪おうとする程安全を侵した場合、それは死に値する」と-。これに尽きる。 実際無期囚となり刑務所で服役している者の殆どが反省せずに笑って過ごしているのだ。(笑うことを批判しているわけではなく、それほど軽薄だということだ)人を殺した者が反省もせずに笑って過ごすことに何の正義があるのだろうか。 死刑判決を受け、己の過ちそして、自分自身と向き合い反省を深め、自分の命を持って被害者 に詫びることの方が余程人道的ではないかと私は思う。 廃止派はよく「人権侵害」「残虐的」などの言葉を多用している。しかしよく考えると、そこ には被害者や被害者遺族の視点がないのだ。最も苦しんでいるのは被害者(遺族)なのである。そこに触れずして死刑を語るなどは以ての外である。

まとめ

様々なことに触れてきたが、私は死刑についての考えが定まる前は最も根本的で大事な事を見落としていたのだ。それは被害者の存在である。
私たちは国を平和にする為や加害者の人権等ばかりにスポットライトを当てており、いかに自己中心的で浅はかな考えであったのだろうと思う。
被害者を慮り、大事にする事を忘れてはならないのだ。こうした事を人を殺した無期囚の著書から学ぶなど思いもよらなかった。
私の結論は以上の理由を持って死刑存置である。

死刑制度を持ったまま、死刑の必要性がなくなる社会が来る事を切に願い、筆を擱くとする。




<参考文献>

■死刑絶対肯定論: 無期懲役囚の主張 (新潮新書) 美達 大和 https://www.amazon.co.jp/dp/4106103737/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_kfRSEbBZRPFP6 via

■死刑 (角川文庫) 森 達也 https://www.amazon.co.jp/dp/4041008816/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_pgRSEb4FP1NK3 vi

■アメリカ人のみた日本の死刑 (岩波新書) デイビッド・T. ジョンソン https://www.amazon.co.jp/dp/4004317789/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_WgRSEbNSCM646 via

■死刑制度 ピーター ホジキンソン https://www.amazon.co.jp/dp/4750329827/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_-hRSEb921PDX9 via

■法の精神 (中公クラシックス) モンテスキュー https://www.amazon.co.jp/dp/4121601653/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_NjRSEbTEB33DD via

/他

JASMINE編集部