【コラム】「深い深い集中」2021年12月26日 64回

◆集中というものを何かに例えたかった。集中という状態は意識して作り出すことが難しい。あるのはただ、気づいたら無我夢中になっていたというときだ。あれは、なんなのだろう。いつのまにか「ゾーン」に入っている。飲むことも食べることも、生理的な衝動を抑え込んでまで目の前の物事に全神経を向ける、これは実に心地が良い。一度入り込んだら抜け出したくない、もはや意識が抵抗できない。そんな摩訶不思議な現象を咀嚼したかった。いろんなものに出会うたびに、これは例えに使えるか?と考えている。そして、ある時手応えを感じたものに出会った。風呂だ。

◆正確に言えば風呂にぷかんぷかん、と浮かぶ桶だ。あれが、普段の我々の状態だ。きっと今もそうだ。ゆらりゆらりと揺れる水面に身を任せている姿は、さまざまなことに意識が移りゆく私たちにそっくりだ。目の前の何かに取り組んでいたとしても、頭の中は遊泳を始めている。常にいろんなことを考えているのは、本能的な部分もあるだろう。何かに没頭しすぎて、背後に迫っていた敵にやられてしまうのを避けるために基本的に人間は注意が散漫している。あちこちに意識を向けて生き延びるための防御に徹しているのだ。だけれども、現代人が欲しているのは「集中力」だ。それは本能としては危険な状態と判断しているのかもしれない。本題に戻って、没頭している状態を桶で例えるならばそれは、水に沈み込んでいるときだ。湯船に浮かぶ桶を浮力よりも強い力でぐぅーと下に押すと、桶に水が入り込み沈んでゆく。その後、上には上がってこない。湯船の中に突然大きな動きが発生して、桶が空中に吹っ飛んで来ない限り。

◆それが我を忘れて集中しているときだ。周りの音などは聞こえない静かな水の中はとても心地が良い。そもそも、桶を水中に沈めるには先のとおり浮力に押し勝つ必要がある。それが、集中状態に入るのが難しい理由があるであるだろう。本能や周りの刺激などによる、集中を妨げようとする反対勢力がぼくらを押し返してくる。これは困ったものだ、いかにすべきか。あ、そうだ。錘をつければいいじゃないか。力を加えなくても、自然と沈んでいくような状態があれば、ぼくらは容易に集中できる。そして、その錘は自分を固定し、水中でも動じない忍耐力を作る。意識下にない状態での忍耐にもはや苦など存在しない。それはもう無敵と言えるだろう。そう、錘とは習慣のことだ。

■何も考えずに仰向けになって大海を旅するのも、それはそれで良いものだ。

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Pythonとジャスミンを創りました。好きな言葉は「知崇礼卑」です。