【コラム】「ことわざから学ぶ対立の姿」2022年01月01日 70回

◆二度あることは三度あると三度目の正直。七転八倒と七転び八起き。虎穴に入らずんば虎子を得ずと君子危うきに近寄らず。こんな対立したことわざを集めることが好きだ。まるでかつての偉人たちが真っ向対立しているような様子が滑稽だ。でも彼らは、自身の経験や歴史から学ぶ教訓を一語にまとめ上げてきたのだし、どちらが正解というものはないから至極当然な結果と言えるだろう。

◆どうも最近は意見が美化され、お互いの下げ合いが顕著に見られるようになってきた。自分自身の主張を強く持つのは議論における必要不可欠の要素であり、お互いのぶつかり合いから真の正解が見えてくることもあろう。ポイントはぶつかり合い方だと思う、つまりその場の空間の状態にある。本来のあるべき議論(ここではディベート形式を想定する)では、お互いが血眼になって組み立てた論理を用いて相手を説得させることだ。だが、現代ではディベート大会などを除けば、「いかに相手を下げ落とすか」にフォーカスが当たりすぎている。さらに世論の目を気にかけ、本来の主張を歪曲(わいきょく)してまで美辞麗句を並べたて印象を高くし、歴然と開いた差の上から相手を見落とすかのように追撃する。それがテレビなどで流れれば、それを見た人たちは真の正解を探し出す術もなく、暗澹とした感情に包まれるだろう。

◆確かに、昔からそういう場で汚職が働いていたのは事実だし、人の支持を得ようとおためごかしの意見を言うようなことはいつの時代も変わらないような気がする。だが実際はどうだろう。世の中に残ったのは極めて単純な、対立する文章だけだ。本来なら、そういう奇麗な意見もあってもいいのではないだろうか。中立的な意見があったはずなのではないだろうか。──社会と歴史に淘汰されたのである。つまり、ごまかしの意見にはある意味での魂が存在しない、抜け殻だ。そこには、なんの学びもなく、議論から導かれる真の正解の一片も存在しない 。残ったのは真っ向対立する核ある主張だ。現に現代に生きるわれわれもその教訓を肝に銘じたり、人に何かを伝えるときの重要な材料にしたりする。歴史に残るとか残らないといった問題ではなく、そもそもとして抜け殻の主張にあなた自身は存在せず、それではあなたの議論に参加する価値というものがなくなってしまう。「歴史に残したいから」を理由にした場合も同様で、残るのは干からびた皮。何が正しいかは見えないが、それを探すべくして本当の自分をもつ一年にしたい。

■ 雀の千声、鶴の一声。形を崩さないためには後者が必要だが、前者はその土壌を担っている。

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Pythonとジャスミンを創りました。好きな言葉は「知崇礼卑」です。