【コラム】「コップに注ぐ量から見る人の変遷」2022年01月09日 78回

◆コップに注ぐ飲み物の量でいろいろなことがわかる。ビールはなみなみと注ぐのに対して、ワインはグラスの4〜3分の1程度だけ注ぐ。日本酒は升を受け皿にして溢れるほど注ぐ。それぞれに心理的・物理的に意味があり、その違いは文化やそのものの性質の異なりを示しているため、それらを比べて考えるのも一つの楽しさだろう。注ぎ方はお酒に限った話ではない。抹茶を点てる際の量は茶碗の半分もないことがほとんどだ。日本は特に語らない文化が発達している国でもあるので、水の量をひとつとっても、その量の違いでお客に対してメッセージを伝えていることもあるらしい(「早く帰ってほしい」など)。

◆文化やマナーは非常に奥深いのも確かだが、さらに年齢や性格で飲み物の注ぐ量にはかなり違いがあると思う。全員が全員ではないことを前提とした上で、よく見かける顕著な例としては「ジュースをなみなみに注ぐ子ども」と「コップの半分と少しぐらいしか注がない中年の大人」がある。もちろん食欲など、その場の状況による影響もあるのだが、大概にして子どもはとにかく量を獲得したがる傾向にある。そして溢れんばかりのジュースを片手に恐る恐るそれを自分の陣地に運び込もうとゆっくり歩く子を見て大人は「おいおい、気をつけなさいよ」と微笑む。ここにあるのはやはり人生経験というものの差なのか。生物学的に言えば「正解」は子どもの行動だろう。目の前に食料があればそれをできるだけすぐに体内に取り入れて生き残るために貯蓄するのが生物としての本能的な行動だ。本能が野獣だとしたら、理性がその調教師、すなわちクールシステムだ。子どもにも当然理性はあるが、やはり発達の未熟さゆえか経験や知識の少なさによるものか、はたまた戯けに過ぎないのかは定かでないが、本能が全面配置されている。

◆その後彼らは成長するにつれて徐々にコップに注ぐ水の量は減っていく。活力が特段に減っているわけではないと思うが、徐々に「飲みのもの」というものの存在が「満たすもの」というよりは「補助的なもの」に変わっていったのだろう。満たすものは結局なくて、それにいくら力を注いでも得られるものは膨れた擬似的な満足感だけだ。結局、補助として置いておくということは「なくてもいい」ということを意味するのだが、「なくても良いけど、いたら嬉しい」とも言えるのではないか。その関係が一番美しく逞しく見えるのはコップの残り半分に余裕があるからかもしれない。

■欲望を律しているのだけど、意味はもたせていない。それもまた良い。

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Pythonとジャスミンを創りました。好きな言葉は「知崇礼卑」です。